いよいよ開演が近づく本公演にソリストとして出演する、日本を代表するフォルテピアノ奏者の川口成彦さんと、第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール第1位のトマシュ・リッテルさんにお話をうかがいました。
川口成彦
1989年生まれ。第1回ショパン国際ピリオド楽器コンクール第2位、ブルージュ国際古楽コンクール最高位。18世紀オーケストラと共演し、コンセルトヘボウ管のメンバーとは室内楽形式によるピアノ協奏曲のリサイタルを開いた。第46回日本ショパン協会賞受賞。
今回取り上げるショパンの曲はすべて、ショパンが 10代後半から20歳にかけて作曲した作品で、青春時代の彼の心からあふれ出した素直な情動を感じることができます。
ショパンは“ピアノの詩人”と形容されますが、その作品のほとんどはピアノ曲。ピアノで自らの感情を余すことなく表現できた、稀有な音楽家でした。
彼の遺した楽譜を見ると、ものすごく細かい指示が書いてあります。舞台役者にとっての台本のようなもので、事実、ショパンには役者としての素質もあったようで、彼が役者の道を選ばなかったのを惜しむ人もいたそうです。
ショパン自身も「音楽は言語表現だ」と言い、弟子にも「ピアノとして弾くのではなく、声楽家のように弾きなさい」と教えたほどでした。当時の人から「あんな演奏は聴いたことがない」と別格扱いされるくらいで、ピアノをただの鍵盤楽器ではなく、人間の声として扱うような感覚を持っていました。彼のピアノへのこだわりは新しい演奏方法を生み出し、ショパンを境にピアノ音楽というジャンルが広がったと言われるほどの、いわば開拓者だったのです。
今回の演奏会では若き日のショパンの、少し“尾崎豊”を思わせるようなみずみずしい感情の吐露に思いを寄せ、その心に近づきたいと考えています。
※ピリオド楽器:楽曲が作曲された当時に製作された古楽器、もしくはその様式を復元したもの
芸術にはテクノロジーだけでは計りきれないところがあると思っていて、もちろん現代のピアノは音も良く弾きやすいのですが、作品が生まれた当時の楽器でしか出せない音の質感があるとも考えています。以前、明治時代のカメラで撮影できる企画展を訪れたことがあるのですが、やはり写真に立ち現れてくる質感や色合いには独特のものがありました。
実は、僕には文通へのひそかな憧れがあります。携帯電話がなかった時代に、皆が駅の黒板にメッセージを書いて待ち合わせをしていたことにも、何とも言えないロマンを感じます。どちらも待つことに意味があり、情緒がありました。
たとえば大切な人に手紙を送るとしたら、僕はツルツルとした手触りに整えられた紙よりも、少しザラリとしているかもしれないけれど風合いのある和紙を選びます。良い悪いではなく、どちらが自分の感性を揺さぶるか、なんだと思います。機能性や便利さに幸せを感じる人もいるし、失われた情緒に思いを馳せ共感する人もいる。ピリオド楽器での演奏にも、そういった側面があるのではないかと思います。
1843年7月18日製造、10月9日エピネイ子爵が購入。
マホガニーケース 製造番号No.10456 長さ205㎝
タカギクラヴィア所有
2018年度ショパン国際ピリオド楽器コンクール認定楽器
屈指のリコーダー奏者だったフランス・ブリュッヘンがピリオド楽器だけで演奏する楽団をつくろうと、同好の士に声をかけて1981年にオランダ・アムステルダムで設立した、古楽オーケストラの先駆け的な存在です。クラシック史においても重要なオーケストラで、当初は18世紀のバロックや古典派の音楽(バッハやモーツアルトなど)を中心に演奏していました。
一般的なオーケストラのようにオーディションで入団するのではなく、古楽を愛しピリオド楽器を演奏する人同士で「やろう!」「うん、やろう!」と集まったような経緯があるため、その仲間意識が音楽をする喜びに結びついていて、“村のオーケストラ”の雰囲気を持つというか、とてもあたたかみのある演奏をする人たちです。
音楽では技術に焦点が当たることもありますが、まずは楽しんで演奏することがすごく大事だと思っていて、僕もピリオド楽器で演奏することに思い入れがあります。今回登場するピアニストのトマシュ・リッテルさんもそうだし、ユリアンナ・アヴデーエワさんは現代ピアノも弾くけれど、フォルテピアノも大好きな人です。
昔の楽器は全部手作りで、今とくらべればどこかぎこちなさがある反面、人間味がすごくあって、“不完全である”という美しさがあります。
そんな当時の楽器を使うことで、作曲家に近づきたい。僕にとってショパンを演奏するということは、時を超えて彼と対峙し共感し合うこと。もっとショパンに近づき、共感を深める手段としてフォルテピアノを弾き、古楽オーケストラと共演します。
18世紀や19世紀の人たちと現代人では、心の状態が違うかもしれません。でも音を通じて当時の人たちとコミュニケーションをとり、通じ合ってみたい。客席の皆様と一緒に、ピアノの詩人ショパンの心象風景に入り込んでいくような演奏会にしたいと思います。
取材・文=山田晃平
5年に一度ショパンの故郷ワルシャワで開催されるショパン国際ピアノコンクール(以下ショパンコンクール)。1927年創設のこの長い歴史を備えたコンクールは、歴代の優勝者や入賞者の多くがコンクール後に国際舞台で大きな活躍することで有名となり、いまや「世界一のコンクール」と称されている。
2018年、これにもうひとつのショパンコンクールが加わった。ショパン国際ピリオド楽器コンクール(以下ショパンピリオドコンクール)と名付けられたもので、本家のショパンコンクールと同様に5年に一度の開催である。第2回は今年10月5日から15日までワルシャワで開催された。
第1回はポーランド出身のトマシュ・リッテルが第1位を獲得し、大きな話題を呼んだ。リッテルは1995年ポーランド生まれ。ワルシャワとモスクワでフォルテピアノ、チェンバロなどを学び、現在はピリオド楽器とともにモダンピアノも演奏。両方の楽器でレパートリーを広げている。彼は2023年6月に来日し、プレイエルでリサイタルを行ったが、ショパンのノクターン第4番、第1番、ベートーヴェンのピアノ・ソナタ第30番、モーツァルトの幻想曲、ショパンの《24の前奏曲》というプログラムで馨しく繊細で上質な演奏を披露し、ピアノ好きの心をとらえた。非常に説得力があり、しかも洞察力に富んだピアニズムで、プレイエルを美しく豊かにうたわせた。
リッテルはショパンピリオドコンクールを受けたのは、先生や周囲の人々の意見ではなく、完全に自身の意志によるものだという。 そしてファイナルでは、18世紀オーケストラと共演することができた。
「18世紀オーケストラはひとりひとりがすばらしい音楽家の集まりで、みんなが本当に音楽を愛しているという感じが伝わってきます。仕事として演奏している人はまったくいません。みんなが自分の演奏を楽しみながら、オーケストラとしてアンサンブルを心から楽しみ、私たちソリストにも温かい目を向けてくれます。本選のリハーサルからそうした空気を感じ取り、のびのびとリラックスして演奏することができました。コンクールで審査員が点数を付けているのに、私はまったくそれを意識することなくオーケストラとともにコンチェルトを楽しむ、そんな思いで演奏することができました」
その結果、リッテルは見事、ショパンピリオドコンクールの記念すべき第1回の覇者となった。2024年3月の18世紀オーケストラとの共演では、ショパンの「演奏会用ロンド《クラコヴィアク》op.14」を演奏する。
「18世紀オーケストラと一緒に演奏できるのは無上の歓びですね。コンクールのときはオーケストラとのリハーサルも時間が限られていたため、集中して本番に備えましたが、今回はオーケストラといろんな響きや表現を試してみたいと思っています。少しは時間に余裕があると思いますので…。『演奏会用ロンド《クラコヴィアク》は、ショパンの数少ないピアノと管弦楽のための作品のひとつです。ピアノ協奏曲に比べ、演奏される機会はそう多くはありません。クラコヴィアクというのは、古都クラクフの伝統的な民俗舞踊で、2拍子をとり、シンコペーションや弱拍のアクセントに特徴があります。ポーランドのお祭りなどでは、よく踊られる舞曲ですね。ショパンはこれを巧みに作品に取り入れ、リズミカルで美しい作品に仕上げています。今回は、18世紀オーケストラとの弾き振りを披露しますが、まさに大きなチャレンジだと感じています。でも、オーケストラと一体となり、自分もその一員になったつもりで演奏できます」
今後、リッテルはショパンをメインに古典派を数多く演奏し、マスタークラスでの指導も増やしていくという。芳醇な香りを放つ彼のショパン。その空気を全身に纏いたい。
取材・文=伊熊よし子