「山への別れ、原題ではAddio ai monti」とは、イタリア人なら誰でもよく知っている、200年前に書かれたマンゾーニの歴史小説「いいなづけ」第8章「Addio ai monti sorgenti dall’acque….さらば水面に聳える山々よ」の冒頭句。日本人の「祇園精舎の鐘の声」に近いのかもしれない。
この作品は、キリスト教の守護天使への祈りで用いられるグレゴリア聖歌、キリエ、グロリア、サンクトゥス、アニュス・デイと、リストが作曲した「巡礼の年 第3年」「夕べの鐘、守護天使への祈り」の断片が、交互に浮き上がりながら進む、ながい旅のようなもの。
今年初め、裁判官だった親友の父上が亡くなったとき、生前、自分が死んだらリストの「夕べの鐘」を弾いてくれと親友に言い残していたと聞き、深く心を動かされた。イタリアを深く愛したリストの音楽は、イタリア人にとって、もはや自国の文化の一部なのだろう。
「いいなづけ」を題名に選んだのは、この小説がわたしや親友一家の住むミラノ近郊やロンバルディア北部を舞台にし、その美しい山々の稜線や湖の風景を余すことなく描きあげ、ペストという伝染病に喘ぐ市民の姿に、現在の我々自身を見出すからに他ならない。
「さらば水面に聳える山々よ」の行(くだり)で、若き主人公たちが不安とともに旅立つレッコの湖畔は、対岸に切り立った乳白色の巨大な崖が天を仰ぐ、荒々しい男性的な光景が眼前一面にひろがっていて、わたしがこの辺りで一番好きな場所の一つだ。
川口成彦さんという、稀代の音楽家に声を掛けていただいた倖せを噛みしめつつ、筆をすすめた。深い感謝をこめて、作品は彼に捧げられている。
杉山洋一
川口成彦フォルテピアノリサイタルシリーズ2021「Contemporaries-同時代人の肖像-」公演ページ
https://www.fenice-sacay.jp/event/kawaguchinaruhiko2021/